<自筆物>
    三条実美 短冊

三条実美 短冊  毎年年2回、浜松のアクトシティで行われる「骨董フェスタ」に今年も行って来ました。
 今回は特別お目当ての物は無く、フラフラとしていたところ目にとまったのが短冊でした。
 作家・歌人等の短冊が置いてある中、公家の物を物色していたところ、一番下に三条実美の短冊があったわけです。三条実美は日本史をやった人間からすれば、幕末・維新期のビックネーム。当然「あやしいな」と思いました。三条実美が2万円ですから。なので、お店の人にとことん質問して自分なりに納得して買いました。お店の人が私の通っている大学の国文科や史学科の先生と交流があるということで、3000円学割してもらいました。
 真偽は別としても、作品自体はいい物だと思います。字もうまいし。歌も「七卿落ち」をしのぶ歌だそうで、「つくしがた ともにむすびし 秋のよの 聲(こえ)もかえりて ゆめにみえつつ 実美」と、書いてあると解説されてました。「つくし」のところが「都久し」になってるんで、「都が懐かしい」と「筑紫」がかかってるのがポイントみたいです。というか、そこしか意味が分からなかったんだけど・・・。実際読むのは難しいけど、いろいろと読みとれておもしろいです。

『三条実美(さんじょう・さねとみ)』1837〜1891
 幕末明治期の公卿、政治家。正一位右大臣三条実万(さねつむ)と土佐藩主山内豊策の娘紀子の子。公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。梨堂と号す。家臣の尊攘志士富田織部の訓育を受け、漢学者志士池内大学に学んだ。安政6(1859)年、大老井伊直弼の弾圧を受けて父実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次第に尊攘思想を強めていく。文久2(1862)年従三位。権中納言。尊攘運動はこの年の後半から最盛期を迎えるが、実美は公家尊攘派の中心となって公武合体派の公家岩倉具視を弾劾、勅使となって江戸城に赴き幕府に攘夷の実行を督促するとともに勅使の待遇を改めさせ、朝幕の力関係の逆転を策した。翌年、薩摩藩等公武合体派の策謀による8月18日の政変で長州藩士ら尊攘派が追放されると京都から長州に下った(七卿落ち)。慶応元(1865 )年、幕長間の紛争に巻き込まれるのを避けて太宰府に移り、同3年12月、同地で王政復古を迎えた。
 翌明治元(1868)年1月9日、岩倉と共に副総裁に就任。同年閏4月江戸に赴き、関東鎮撫の責任者となる。この年、王政復古の功績により永世禄5000石を下賜されている。同4年天皇を補弼する政府の最高責任者、太政大臣となる。同6年には征韓論を巡って対立する西郷隆盛と大久保利通の間に入って悩み抜き、熱を出して右大臣の岩倉が職務を代行した。幕末の経歴と高い家柄から政府ナンバーワンの地位にあったが、元来決断力が弱く、政治的発言も比較的少ない人物で、この一見以後さらに控えめとなった。同18年内閣制度が成立し、新設の内大臣となったのちは政治の第一線から退くが、天皇補弼の任は変わらず、華族最高ランクの公爵として皇室の藩屏たる華族社会のまとめ役となった。フレイザー英国公使夫人は当時の実美を「政治にはもう飽き飽きした、上品な紳士」と評している。
(朝日新聞社編 「日本歴史人物事典」より)

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